映画を見ること

ぱせよさんが映画の感想を「あまり口にしない」と呟いていてそれでふと思い出したんだけど、ずっと前、あるブログで読んだある映画の感想がすごく印象的で見たくてたまらなくなって、そしてあの時、私は先代猫の介護をしていて、午前は地元の小学校で働き、午後からは自営の塾を開け、その合間に猫の介護をするという(そして持病の最初の兆候も出ていて、痛みに耐えながら生きていた)すさまじく忙しくそして貧しい生活で、映画館のある1時間も離れた土地で3時間も過ごすなんてことができるわけもなく、あまりの惨めさにわが身を呪ったのだ。

猫が死んでほどなくその映画がレンタルショップに出回って、新作のうちに借りてきてみたらまるで好みでなくて、私の心はこんな映画のためにこの世でたった一匹の猫をたとえ一時でも見放したのかと、もう一生誰にも許されないような気持になった。その映画の出来がどうという話ではないし感想を述べることがどうという話でもない。

死に向かうものを看取ることはたとえそれが猫でも苦しいし、貧しいこと、痛みを抱えて生きることもまた苦しい。希望がないことはさらに苦しい。映画は人の生き死にに直結しないかもしれないが、それを見る自由のないことが時として人を打ちのめすこともある。いつかその自由を再び得られると知っていても、それはこの猫が死んだ時なのだと思うと恐ろしかった。

私の猫は私に見放されたゆえに、死んだあともどこにも行けずに、あの寒い冬の夕方を今もずっとさまよっているのだと思うし、最後にかいだ自分の吐しゃ物のにおいを今もかいでいるだろう。何故すべてを投げうって最後のたとえ数時間でもそばですごしてやれなかったのか、私は私を一生許さないし、あの映画も二度と見ない。

楽しそうだな、と思った世界は、覗いてみたら全然違った。蛇に誘惑されたイブも同じことを思っただろう。私は誘惑には負けなかったが、誘惑された事実は残り、最も大事なものを私は失い、私自身の価値もまた失われた。これはただそれだけの話だ。