久々にAmazonレビューを投稿した「私のエッジから観ている風景」

Twitterスペースに何故だかすごく韓国文化に詳しい方がいらして、どういう方なのだろうと思っていたら、金村詩恩さん私のエッジから観ている風景 (hatenablog.com)

という、韓国(と言っていいのか朝鮮半島と言った方が正しいのか)にルーツを持つ、ライターの方だった。私はそれまで存じ上げなかったのだが、この夏は韓国について学ぼうと思って何かよい本はないか尋ねたら、もうお一方と一緒に色々教えていただいた。その流れで金村さんご自身も「私のエッジから観ている風景私のエッジから観ている風景: 日本籍で、在日コリアンで」出版されていることを知り、久々に日本語の本を読んだ次第。(私は今、家に帰ったら英語だけ使うようにしているので)教えていただいたほかの本は帰省先で読めるように手配した。

 

これは残すべき、残るべき、読まれるべき本だ。ただ、ブログ掲載時のタイポがかなりあって、これは編集者が気づくべきだと思う。私がこれを言うと「在日コリアンは正しい日本語を過度に要求される」という日本国内の悪習と表面上同じになってしまうのだが、しかしこの複数のタイポのために私は今回、児童むけの図書館に推薦していいかどうかかなり迷ったのである。国語的ミスが少ないことは、こういうところで人の目に触れる機会の拡大につながる。

およそ30年前、教育現場で「国際協調」「グローバル化」が合言葉になって、英語教育は大きく変わった。AET(現在のALT)が導入された。
しかし、当初、AETとして雇用されるのは白人だけで、これは後に批判を呼んだ。当たり前だが、当時は「外国人らしくない」という理由でアジア人も黒人も雇用しないことの問題性に、自治体(あるいは文部省)は無自覚だったのである。
国際化を見据えた教育(諸外国を意識した教育)というのであれば、まず何よりも日本は周辺国とどうかかわってきたかを総括し、そして今後どうしていくか、という視点があるべきだったのだが、現代においてもその動きは英語科教育にはない。英語の教科書にはアジア人も黒人のメインキャラクターもかなりあとになるまで登場しなかった。

戦争の話はかならず一つ出てくる。原爆、かわいそうな象、アメリカにおける日本人収容の話などで、日本人が外国人に何をしたかではない。外国語を子どもに学習させるときに、その題材は深刻すぎてはいけないし、コントロバーシャルなものも、外国語習得という観点からするとふさわしくない。

だが、問題はある。在日コリアンという存在について、歴史と公民の授業では扱うが、日本にいながら民族性を時にはく奪され、時に求められる在日コリアンの存在を、国際化の名のもとに、「外国語科」が完膚なきまでに無視している、国がそういうことをしている。その態度がヒドゥンカリキュラムとしてどのように働いているか。
それは実のところ国際化教育ではなく、ただ単に将来的労働者(納税者)に何を教えておきたいかというだけの話なのだ。それ自体は別にかまわない。公教育は将来の国民の育成が、その主目的のひとつである。

だが、そこでこぼれ落ちたものを無視してはならない。取り上げられないものを、そのままにしない手立てが、別のところで絶対に必要だ。教育にはもう一つ「子どもの将来的幸福」という目的がある。この空々しい「シカト」を織り込み済みのままにするむなしさ、感情的不幸を内包した教育なんてあるだろうか。


学校教育は「児童生徒個人の将来的幸福に尽くすこと」と「社会の維持および構成員の安定的供給」、この二つを車の両輪として成り立っていて、そして不完全である。抜け落ちたところを補完するものが常に必要だ。これは、まさにそのための書籍である。