私も腎臓が痛い

昔から体脂肪が一度に減ると尿管が引っ張られて痛むという症状が出る。
2日単位で過食と拒食を繰り返し、慢性的に睡眠不足で、風邪が治らない。
私が倒れては元の子もない、のはわかっているが、もう時間がない。あと少しの命、終わりの見えている命なのだ。

この子の痛みや苦しみはこの子のもので、私のものではない。また、私の病苦も生きづらさもこの子のものではなかったし、ない。猫は遠慮なく好みのえさを要求し、遊びに誘い、ゆうゆうと眠ることを憎らしく思ったことも有った。だがそれでよかったのだし、それに猫が何も「わからない」にしても何も「感じない」わけではない。すさんだ空気は伝わるし、飼い主が家にいる時間が短いと不満に思うし、やはり寂しいのだ。

耳の大きな仔猫で―――前から猫をもらう約束をしていた生徒の保護者の家に、「うまれたよ」と聞いて、初めて見に行った時に一目でこの子に決めたのは、一つにはその尻尾の長さ、猫十字社小さなお茶会で「尻尾の美しい街頭の踊り子」を思って主人公が珍しくコーヒーを飲む気になる話を強く覚えていたことがひとつ、そして遊びっぷりが素晴らしかった。人間の操作する猫じゃらしを追いながら、自分の軌道からリーチが届くものすべてにじゃれつつ猫じゃらしの動きもとらえて最後には人間をへとへとにして勝利するそのタフさ、根性、好奇心がよかった。

こういう猫にはこちらも素手で立ち向かわなくてはならない、そう思った私は手を生傷だらけにして職場の全員をドン引きさせながら日夜遊んだ。体に比して耳が大きくて、まるで猫ではない別のなにかの動物のようだった。

私は壮年期のニャンギーの顔の毛をなでつけて細くしてみるのが好きだった。肥満気味の顔がスマートになる。ますむらひろし銀河鉄道の夜の猫みたいになる。今はがりがりにやせたので、逆にけば立たせて太って見えるよう細工する。だが無駄なのだ。もう終わる。
私は猫はお着換えをして生まれ変わったりするなどと信じることはできない。この猫は20年前に生まれて20年間生きた。そしてあと少しで、もう少しで消えていく。星になりもしない。木曽の山中で修業もしない。何にもならない。心の中でも生き続けない。

一昨年いとこが自殺した時、とりしきってくれた住職がいい人で、「春の雪のように行ってしまわれた」と美しい表現をしてくれた。比してニャンギーは根雪である。いつまでもしぶとく残り、もう消えたかと思うとまだある。だが夏には消える。