民間の英語教育

今日は英語多読「だけ」をすすめる講演にエネルギーを吸い取られた。
読書が母国語の語彙を増やすのと同じで、英語学習においても多読しかない、避けて通れない、という主張は全く新しくない。理論的にいろいろ突っ込みどころが満載なのだが追及するのもムダだろうなという声のでかさと態度で、なんだかうんざりして帰ってきた。会場は信者だらけで気持ち悪かったな。こんな田舎町におっかけてくるってどんだけやねん。
人間の脳というのは本当に多種多様で、だからこそいつまでも学習と教育には決定版がないのである。美容と健康に決定打がないのと同じだ。多読は有益だが、ありとあらゆる学習を試すべきであり、多読だけにしがみつく必要はない。ディクテーションも洋楽きくのも暗唱も文法学習もなんでもやったらいい。大体、自分が成功した教育法ひとつだけを誇大に吹聴する先生には要注意ですよ。

それにしても民間の英語教育論者はなぜ学校教育と対決したいのだろう。対立する必要はないのだが。私たちの根底にあるのは語学の喜びである。決して生徒を苦しめるために英語を教えているのではない。テストが英語嫌いを作ることなんてわかっている。本当ならやめたいさ。制約の中で力を尽くしているし、能力をはかるテストのあり方だって定期的に頭を寄せ集めて考えてるのさ。「今までの学校英語はみんな失敗なんだ」なんて言われるいわれはねえよ。あんたの中に中学3年間の知識はまったく生きてないのかい。と非常に不愉快であった。あたしの中には生きてるぜ。

私は公立学校で英語を教わり、公立学校で英語を教え、今は亡きジオスで学び、自学自習で英検を受け続け、英語で外国人に箸を売ってきた。去年は家庭教師として英語を教えた。
公教育において教えると教わるの両方を経験し、ビジネスの場面で英語を使い、またビジネスとして英語を教えたのである。大体、日本における英語を使うシーンは網羅とは言わなくても八割くらい経験したと言えると思う。私としては中学3年間の英語は有益だと思いますよ。