ニャンギーはどこどこ歩く

猫の忍び歩きには相当な筋力が必要なのがよくわかる。
その昔ニャンギーは音もなく歩いた。それがある日からとことこになり、いまではどこどこである。
体重が落ち筋肉がそげるように日々薄くなるにつれニャンギーの足音は高くなってきた。バレエダンサーがトウシューズでつつつ…と歩くパ・ド・ブレという技があるが、猫はいつもかかとを上げて歩いているので、あれとほぼ同じなのだ。正確には猫の足の場合はルルベだがそこはつっこまないでほしい。ともかくパ・ド・ブレを音のしないように優雅にやるほうがはるかに筋肉を使う。ドドドドドドとジョジョの効果音よろしく音をたてていいならラクなものだということを言いたいのだ。

排尿もするし今のところかちかちの便がたまっているようでもないので、少し安心して目を離して英文法の勉強をしていたら、どこどこと歩いてきて、よいしょ、とベッドに登った。どうも少し構われたいようなので、寝そべってやると大儀そうに乗ってきてぴったりとくっついて腹這いに寝た。

猫というのは横になるときも、全身を弛緩させているようでそうではなかったのだ。やせ衰えた猫ほど、人の肌に寄り添ったときに密着する。もはや自分から水もえさもとらない猫を生かしておくことは正しいのかどうかわからないが、ただニャンギーはベランダで外の空気を吸い、においをとらえ、外界の情報を取り入れようとする。朝は一番光の入る東側の私の部屋の窓でぬくもりにくる。猫なりに世界と関わろうとしている。

関わろうという心の動き、それこそが生きるということだろうし、自発的にそうしている以上、人間ができることをしないで遮断してしまうのはやはり違うような気もする。そもそも私が保育器がなければ生存できなかった身であるし、自然な生死を論じることができる立場から最初から私は大きくかけ離れている。そうなると、私には「看護をさぼらない」という道しかやはり残されていない。