私に教えるな

ティンダーで知り合ったたいして付き合いの長くない男に「スーツに合わせるブーツがないので買いに行かないといけない」と言ったら、「俺はサイドゴアを買った」「サイドゴアだ」「サイドゴアしかない」とえらくしつこく、うんざりしてブロックした。常識で考えて女のスーツにサイドゴアはないだろうよ。野戦病院の軍人かっつの。この、一部の男性の「俺様の叡智を女どもに教授しないことには死んでも死にきれない」と言わんばかりの教えたがり、従わせたがりの癖はいったいなんなのだろう。

また別のユーザーの話になるが、私が休日の朝に楽しんでいた、はちみつ漬けのいちごとミントを浮かべ、ポトスの葉をそわせて撮影したアイスティーの画像(自分で言うのもなんだがめっちゃイケてる)に「変なもの飲んでるね」とケチつけてきやがって、さらには「俺はビールだビールビールビールそれもアサヒだアサヒアサヒを飲んでる俺様は俺俺俺俺様はアサヒアサヒアサ」いつまでも俺俺アサヒアサヒうるさいことこの上なくてこれもブロックした。お前が何飲んでても、私の休日をくさす権利はないだろう。こいつら何年ティンダーやっても相手見つからないと思うよ。

昨今、数年前に紹介されたマンスプレイニングというタームと概念が徐々に浸透しつつあるわけだが、まさにそれだと思う。あの、目の前の女は自分よりも無知であるはずだというあまりに短絡が過ぎる偏見はなんなのだ。主婦は無知なはずだ、おばちゃんは無知なはずだ、若い女は無知なはずだ、そして「本当に賢い女」ならば俺のすごさを感知できるはずだ、というあまりに幼稚な願望。その発露としての横暴さ。

この感知というのが、私は確信をもって言うが彼らには相当重要なはずだ。男が男をわかるようには(つまり理論では)わかってはほしくないのだ。「うまく言葉にできないけど、アナタという男がすごいのは”わかる”」といった具合にわかってほしいのだ。女に理づめで納得されたくはないのだ、と私は思っている。「男が男をわかるようには」と言ってはみたが、理論的な男とかむしろそっちが幻想なのだが。

鬼平犯科帳にはよく「女とは女という生き物だ」、「理屈にあわないことをする、それが女だから」という強固で迷惑な決めつけが繰り返し登場する。それが嫌で見なくなったのだが、これは相当に世の中に根付いた迷信であろうと思う。お前ら、女がそういう生き物でいてくれないと困るんだろう、知ってるぞ。男より劣った、二流の、感覚で生きている生き物。それならそれでかまわないでおけばいいのに、幻想の「俺様を理解する本当のいい女」を探して火付けを繰り返している。「理屈にあわないことをする」のはどっちなのか。